またまた断腸亭タイムで、大分、間が空いてしまいました…続き物だというのに…反省反省。
さて、前回に引き続き、私が理想とする三国時代の人物で第四の男、
劉繇を挙げたいと思います。この人は、前漢の創始者・劉邦の孫である斉の孝王の子孫と言われています。後漢時代になっても漢室(漢の皇室)の皇族と認められていた、由緒有る家柄です。皇族であると共に、諸葛亮らと同様、名士や士太夫と呼ばれる社会的身分で、言わば支配層に属していました。この人の叔父の寵は、県令や郡の太守(長官)を歴任した後、中央政府で四度も三公と言われる大臣になっています。また、父は郡の太守となり、兄は三国志が好きな人はご存知の岱、字公山で、兗州刺史(監察官)の時に反董卓連合軍に加わりましたが、後に青州黄巾賊(黄巾の乱における一集団)と戦って敗死しています。
▲劉岱、字公山。猪突猛進型の人物だった様です。画像は拾い物ですが、恐らくコーエーの三国志Xの顔グラの改造で、オリジナルより数倍良いですね。ただ、やや西部警察?的な顔立ちですが…
この劉繇に関しては、断腸亭は理想と言うよりも共感する部分が多く、今迄挙げた他の三人とは捉え方が若干、異なります。その為、その事績をやや詳しく見て行こうと思います。
劉繇は、青州、今の支那大陸では山東省辺りの出身です。若い頃に孝廉や茂才といった役人候補者に推薦され、県令や青州の役人になりました。県令の時には、皇族の名声を上役に利用されそうになるや、すぐに辞職してしまい、州の役人の時には、汚職した高官を中央に報告して罷免させました。この辺が、彼の正義感・果断さなどをよく表していると思います。役人になる前には、誘拐された叔父を賊から奪還した話も伝わっており、唯の貴族のお坊ちゃんではなかったことを窺わせます。
▲劉繇、字正禮。名の『繇』は難しい字ですが、よりどころにしてそれに従う、という意味があり、字の正禮(礼)と合わせると良い名前だと思います。こちらの顔グラは、やはりコーエー三国志Xのオリジナルです。
その後、中央政府の役人として招聘されますが断り、戦乱を避けて南方にいた時に、空白になっていた揚州刺史に任命されます。揚州は、今の南京周辺、揚子江(長江)下流一帯の広大な地域です。劉繇は、この命を受け、当時揚州北部に勢力を持っていた袁術を避ける形で長江を渡り、役所を構えています。この時には、袁術の元で働いていた呉景や孫賁が彼を助けて動いており、袁術とはまだ表面上は敵対していません。
しかし、劉繇は元来正義漢ですから、袁術の独断専行・朝廷無視を見逃すはずは無く、やがて呉景・孫賁らを放逐して袁術との対決姿勢を明確にします。彼は、張英・樊能・于麋らを任用して水軍の指揮を取らせ、袁術の南下を防ぎます。この張英らは、恐らく地元長江流域の武人達で郡県に仕えていた武官だったのでしょう。そうしたこともあってか、袁術は劉繇を降すことが出来ず、両陣営の睨み合いが何年も続いた様です。
その後、後漢の朝廷では、曹操の力が強くなり、南方の袁術をどうにかせん、と考えた結果でしょうか、劉繇を揚州の牧・振武将軍に昇進させます。牧というのは、刺史の権力を強めた役職で、刺史が州内の監察官に過ぎなかったのを、戦乱で弱まった地方の統治力を増す為に、州の行政・軍事長官に格上げしたものです。その為、牧になると将軍の称号も同時に付与された様です。この頃には、三国志好きには有名な驍将・太史慈や人物鑑定の大家・許劭(字子将)らがその陣営に加わり(但し、許劭は飽く迄客分だった様です)、揚州支配を着実に進めて行くことになります。また、彼が刺史に任命される前には、揚州の会稽郡という所に、役人としてはほぼ同期と思われる王朗が赴任しており、この人も三国時代では有名な政治家で、後に曹操の下で働いています。
さて、この後の歴史は、江東の小覇王の異名を持つ孫策の登場によって大きく動いて行きます。彼は、当時世話になっていた袁術から独立したいと密かに考え、その兵を借り受けて江南(長江下流の南岸地域、江東はその中の東の地域)を征討したいと申し出ます。孫策は揚州の呉郡という所の出身ですから、水軍の扱いには慣れていたでしょう。彼は袁術の許可を得て兵を借りると、水を得た魚の如く、劉繇の陣営に挑戦して行くことになります。
その後の結果を簡単に書きますと、劉繇陣営は陥落させられた砦を奪還するなど、善戦した局面も有りましたが、結局ボロ負けし、張英ら将軍の多くは戦死か離散するかして、総大将である劉繇も最終的に揚州南部の豫章郡という所まで敗走します。敗北の理由は、よく言われているものを列挙しますと…
一、そもそも劉繇自身、軍事には疎く、張英ら各将軍をまとめられず、各将軍がバラバラに行動したので各個撃破された。
二、許子将の評価を恐れ、有能な軍人ではあったが若輩の太史慈を重要なポストに就かせず、偵察部隊長位の役目しかさせなかった。
三、戦争前は、自軍が圧倒的な兵力を誇っていた為、袁術勢力の一部とみなしていた孫策軍を見くびり過ぎた。
…などなどであり、それらは恐らく真実だったでしょう。この後、劉繇は豫章を本拠にしようとしましたが、笮融という、『南の呂布』と言われた食わせ者の反乱に翻弄され、その鎮圧後間も無く、この地で没しています。まだ42才でした。
さて、では三国志ファンには余り人気の無いこの人物のどこに、断腸亭は惹かれるのか?という問題です。それは、後漢末期の混乱状況の中、朝廷が機能していない中でも曲がりなりにも勅命を受けて南の辺地に赴任し、袁術退治を想定しつつ軍備を強化し、結果的に孫策に破れたけれども、最後までその義務を果たさんとした姿勢、だと思います。恐らく、この人物は、平和な世であれば、許子将の言葉の如く、『治世の能臣』となることも出来たでしょうが、彼は曹操ではなかったのです。
また、三国志の一つ、呉書の劉繇伝の最後にある陳寿の評価には、『劉繇は常に正しい物事をしようと努めてはいたが、遠く万里の地で自立し英雄になることは、その長ずる所ではなかった』、と有り、まさにその通りの人生だったのではないでしょうか。
人間は、生きる時代を選べませんが、劉繇の如く、世に出たからには不平を言わずに最善を目指して行動し、人生を全うする、これこそ私断腸亭も、厭世的でグダグダ言いつつも何とか実社会や自分の人生で実現したいと思っていることであり、大いに共感出来る部分なのです。
いやはや、前回の三人の何倍、書いたでしょうか?我が国の人物では、楠木正成とか、幕末の会津藩・新撰組が劉繇の生き方に近いと言えるかも知れません。時代の潮目に抗えなかった面が共通している様に感じます。
それでは、またお会いしましょう!
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