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立体視画像を作成する

断腸亭、久々に戻って参りました!

今回は、立体視画像について書いてみたいと思います。立体視画像とは、二次元の画像をあたかも立体つまり三次元の物体に見える様な処理を施した画像のことです。別名をステレオグラム・立体画などと言います。用途としては、目のトレーニングに使う本とか、航空写真などがあります。

断腸亭が採り上げるのは、立体視画像の内、特に何の器具も用いずに用意された画像のみで立体視出来るものですが、この方法を『裸眼立体視』と言います。この『裸眼立体視』には、以下の二つのやり方に大別されますので書きますと、

裸眼立体視の種類
平行法…右眼で右の画像を、左眼で左の画像を見る方法。画像より遠くに焦点を合わせる。
交差法…左眼で右の画像を、右眼で左の画像を見る方法。画像より近くに焦点を合わせる。

両者共、目と画像との距離によっては立体視が不可能になる可能性がある。また、画像が小さいほど焦点の移動も小さくて済み簡単である。(以上、wikipediaより引用して筆者が編集)


どうでしょうか?文章で説明すると確かに上記の通りなのですが、初めての人は訳が分からないと思います。分かりやすく言えば、画像の奥か手前に焦点を合わせる、ということでして、奥に合わせる場合が平行法、手前に合わせる場合が交差法、ということになろうかと思います。

私断腸亭が今回ご紹介するのは、二つの内の平行法の方で、断腸亭の印象ではこちらの方が初めての人にも習得しやすいと思います。立体視画像を作成するには、seeneonという専用のフリーソフトを使って処理をしますが、もう何年も前に開発されたソフトですので、いつまでダウンロード出来るか分かりませんが、一応リンクを貼っておきます。→seeneonのリンク先

裸眼立体視に使う画像は何でも良いのですが、今回は3枚用意し、全て平行法用に作ってあります。1枚目は襖絵(ふすまえ)用?の水彩画です。
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どうでしょうか?山の稜線が何段階かに分かれて見えたでしょうか?分かりにくい場合は画像をクリックしてオリジナルサイズでご覧下さい。

続きましては、断腸亭の好きなコーエーの三国志シリーズから、新武将用の顔グラ画像です。
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一応、顔とかヨロイとかに遠近を付けているのですが、分かりにくいかも知れませんね。

さて、3枚目は、19世紀フランス新古典主義の画家・アングルの代表作『泉』を試してみました。
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これは最後にして一番うまくいったと思いますが皆さんはどうでしょうか?裸婦が手前に浮き上がって見えるでしょうか?

これらの画像処理では、『高低差情報画像』というものを作らねばならず、これがやや面倒です。分かりやすく言いますと、RGB(赤・緑・青)の三原色の内、どれか一色だけで濃淡を付けた画像のことで、これがそのまま見た目の遠近の情報になります。興味の有る人はネット上で紹介してあるサイトが幾つかありますので、試してみて下さい!

それでは皆さん、またお会いしましょう!


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# by danchootei | 2014-12-01 18:28 | ダンチョネ雑多記

断腸亭の三國志Xプレイ記

三國志ネタが続いていますので、その流れで断腸亭のゲームプレイ記を書こうかと思います。

コーエーの三國志X(10)は、三國志Ⅶ(7)・Ⅷ(8)の流れを汲む全武将プレイ(君主・都督・太守・一般武将・在野武将など)の作品で、断腸亭が好きな数少ないゲームの一つです。この前作であるⅨ(9)も、戦争フェイズなどで世間的な評価が高く、シリーズ最高傑作に推している人も居る様です。断腸亭もプレイしましたが、私の場合、全武将プレイが継承されなかったのが不満で、結局全武将プレイが復活したX(10)が相対的に一番好きな作品になり、今日に至っています。しかし世間の評判は芳しくなく、概ね悪評ばかりな感じですね。攻略サイトなどでも他のシリーズ作品よりも適当に扱われている気がします。駄作?の理由として、一発逆転の戦役モード・システムの中途半端さを挙げる人が多い様です。断腸亭も、この戦役モードは好きではありません。戦争の一部の割には、何か緊迫感が欠如してるんですよね。更に、X(10)に限らず、コーエー三國志の一大特徴?である、『ゲーム後半になるとルーチンワーク化する』のも痛感していますので、この作品でも最後までプレイしたことは実は余り多くありません。加えて、マルチプレイ出来なくなったことも評価が低い原因かも知れません。

また、後継作品である11・12は、やはりまた君主プレイに戻ってしまったことと、かつての様に時間が取れなくなったことから、プレイしていません。12は、amazonのレビューを見ると、シリーズ最低作かも知れません。コーエーさんの栄光は過去のものになりつつある様ですね…

話は戻って、X(10)の良い所は、在野武将でも戦争に参加出来ることですね、これは良いです。今回は、この在野武将に注目してこのゲームを紹介してみたいと思います。シナリオはNo.2で始め、太史慈を選択しますが、太史慈は北海の孔融配下になっており、ゲーム開始と同時にさっさと下野して在野武将になります。名付けて、『劉繇勢力救援作戦』です!

選択する太史慈、字子義は、青州東莱郡の人で、先日紹介した劉繇とは同郡の出身ですが、郡の下の出身県が異なります。ちなみに、我が国の郡・県は、明治期に支那の行政制度を参考にした際、上位・下位を取り違えたと言われていますね。戦後日本では郡は名前が残っているだけで行政単位としては機能していませんが…
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南方の建安という都市に住みつつ、日々日雇い生活で資金稼ぎに勤しむ太史慈。分かりにくいですが、画面の真ん中で馬に乗り、右手に槍を持ってるのが太史慈です。
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そんな生活をしていると、劉繇が揚州刺史に任命されるので、秣陵(ゲームでは建業ですが、建業は孫権が後に改名した地名です)に移住します。
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ちなみに、このゲームでは色々な人と結婚することが出来ます。今回の太史慈の奥さんはこのお方。
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秣陵移住後、数ヶ月すると、奥さんが出産を迎えます。また、移住してすぐに、今迄の貯金で都市の防御度向上や治安向上に努め、地獄のショッカー軍団?の来襲に備えます。
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秣陵に移住しての平和な生活も束の間、南西の方角から怪しい黒い影が迫って来ます。これが孫堅亡き後、放浪軍化した孫策軍です。
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伝令の長身お姉さんが急を告げます。いよいよ来ましたよ、チンピラ集団。
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敵サンが都市に攻めて来ると、初めに攻城戦(劉繇側視点では籠城戦)から始まります。三國志Xでは、在野武将も都市側勢力の助っ人として参戦することが出来ます。無論、ここでは太史慈は劉繇側として参戦します(史実では初めから劉繇側)。

こいつら孫策集団はシナリオNo.2ではやたら強く、孫策・周瑜・程普の主力艦?トリオを始め、黄蓋・韓当らのツワモノ揃いです。敵兵力は3万5千~5万、の間で、普通は4万2・3千のことが多いですね。対するお味方は、御大・劉繇を始め、樊能・張英・陳横・周昕ら軽巡洋艦・駆逐艦級の頼もしい?方々ばかり(飽く迄ゲーム内での能力です!)。しかも、総兵力は1万5,6千。助っ人・太史慈の1万を加えても2万5,6千です。ただ、太史慈は武力が90も有り、知力もそこそこで、戦艦級と言えるでしょう。

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太史慈は私兵である弓兵1万を持っています。弓兵は敵からの地上攻撃、特に歩兵に弱いので、基本的に城壁からの攻撃に勤しみます。また、太史慈は『火矢』の特技を持っているので、敵サンに着火するとかなりダメージを与えられます。
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太史慈は武力90を活かし、敵の主力艦の一人であり、武力86で知力も高い程普に一騎打ちを仕掛けて勝つと、その分だけ兵力が丸ごと居なくなりますので効果絶大です。但し、在野武将の一騎打ちで討ち取ったはずの敵武将も、お味方が籠城戦に負けて次の市街戦になると何故か兵力と一緒に復活してしまいます!(しかも敵将は一回目の一騎打ちで怪我していますのでもう一騎打ちに応じてくれません)
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程普・周瑜を撃破したら、後は敵の頭目・孫サンと残存兵力を料理するのみです。城門本丸(ここを破られると市街戦に突入してしまいます)を攻撃する敵サンに、後ろから火矢を食らわせます。テメエ、このチンピラ共、クタバりゃがれ!断腸亭の怒号も響きます!
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戦いに勝利し、御大からお褒めの言葉を頂き、仕官も出来ました!
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ちなみに、これは籠城戦に負けて市街戦に突入したパターンです。太史慈は怪我してしまい、御大・劉繇は残り155人!辛勝でした~


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このゲームでシナリオNo.2をプレイする時には、この画面を目指して頑張っています!秣陵に孫策軍の旗をはためかせたくないですからね~

今回は、画像ばっかりになってしまいました、皆さんまたお会いしましょう!



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# by danchootei | 2013-04-20 23:02 | ダンチョネ雑多記

三国志と断腸亭 その二

またまた断腸亭タイムで、大分、間が空いてしまいました…続き物だというのに…反省反省。


さて、前回に引き続き、私が理想とする三国時代の人物で第四の男、劉繇を挙げたいと思います。この人は、前漢の創始者・劉邦の孫である斉の孝王の子孫と言われています。後漢時代になっても漢室(漢の皇室)の皇族と認められていた、由緒有る家柄です。皇族であると共に、諸葛亮らと同様、名士や士太夫と呼ばれる社会的身分で、言わば支配層に属していました。この人の叔父の寵は、県令や郡の太守(長官)を歴任した後、中央政府で四度も三公と言われる大臣になっています。また、父は郡の太守となり、兄は三国志が好きな人はご存知の岱、字公山で、兗州刺史(監察官)の時に反董卓連合軍に加わりましたが、後に青州黄巾賊(黄巾の乱における一集団)と戦って敗死しています。
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▲劉岱、字公山。猪突猛進型の人物だった様です。画像は拾い物ですが、恐らくコーエーの三国志Xの顔グラの改造で、オリジナルより数倍良いですね。ただ、やや西部警察?的な顔立ちですが…

この劉繇に関しては、断腸亭は理想と言うよりも共感する部分が多く、今迄挙げた他の三人とは捉え方が若干、異なります。その為、その事績をやや詳しく見て行こうと思います。

劉繇は、青州、今の支那大陸では山東省辺りの出身です。若い頃に孝廉や茂才といった役人候補者に推薦され、県令や青州の役人になりました。県令の時には、皇族の名声を上役に利用されそうになるや、すぐに辞職してしまい、州の役人の時には、汚職した高官を中央に報告して罷免させました。この辺が、彼の正義感・果断さなどをよく表していると思います。役人になる前には、誘拐された叔父を賊から奪還した話も伝わっており、唯の貴族のお坊ちゃんではなかったことを窺わせます。
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▲劉繇、字正禮。名の『繇』は難しい字ですが、よりどころにしてそれに従う、という意味があり、字の正禮(礼)と合わせると良い名前だと思います。こちらの顔グラは、やはりコーエー三国志Xのオリジナルです。

その後、中央政府の役人として招聘されますが断り、戦乱を避けて南方にいた時に、空白になっていた揚州刺史に任命されます。揚州は、今の南京周辺、揚子江(長江)下流一帯の広大な地域です。劉繇は、この命を受け、当時揚州北部に勢力を持っていた袁術を避ける形で長江を渡り、役所を構えています。この時には、袁術の元で働いていた呉景や孫賁が彼を助けて動いており、袁術とはまだ表面上は敵対していません。

しかし、劉繇は元来正義漢ですから、袁術の独断専行・朝廷無視を見逃すはずは無く、やがて呉景・孫賁らを放逐して袁術との対決姿勢を明確にします。彼は、張英・樊能・于麋らを任用して水軍の指揮を取らせ、袁術の南下を防ぎます。この張英らは、恐らく地元長江流域の武人達で郡県に仕えていた武官だったのでしょう。そうしたこともあってか、袁術は劉繇を降すことが出来ず、両陣営の睨み合いが何年も続いた様です。

その後、後漢の朝廷では、曹操の力が強くなり、南方の袁術をどうにかせん、と考えた結果でしょうか、劉繇を揚州の牧・振武将軍に昇進させます。牧というのは、刺史の権力を強めた役職で、刺史が州内の監察官に過ぎなかったのを、戦乱で弱まった地方の統治力を増す為に、州の行政・軍事長官に格上げしたものです。その為、牧になると将軍の称号も同時に付与された様です。この頃には、三国志好きには有名な驍将・太史慈や人物鑑定の大家・許劭(字子将)らがその陣営に加わり(但し、許劭は飽く迄客分だった様です)、揚州支配を着実に進めて行くことになります。また、彼が刺史に任命される前には、揚州の会稽郡という所に、役人としてはほぼ同期と思われる王朗が赴任しており、この人も三国時代では有名な政治家で、後に曹操の下で働いています。

さて、この後の歴史は、江東の小覇王の異名を持つ孫策の登場によって大きく動いて行きます。彼は、当時世話になっていた袁術から独立したいと密かに考え、その兵を借り受けて江南(長江下流の南岸地域、江東はその中の東の地域)を征討したいと申し出ます。孫策は揚州の呉郡という所の出身ですから、水軍の扱いには慣れていたでしょう。彼は袁術の許可を得て兵を借りると、水を得た魚の如く、劉繇の陣営に挑戦して行くことになります。

その後の結果を簡単に書きますと、劉繇陣営は陥落させられた砦を奪還するなど、善戦した局面も有りましたが、結局ボロ負けし、張英ら将軍の多くは戦死か離散するかして、総大将である劉繇も最終的に揚州南部の豫章郡という所まで敗走します。敗北の理由は、よく言われているものを列挙しますと…

一、そもそも劉繇自身、軍事には疎く、張英ら各将軍をまとめられず、各将軍がバラバラに行動したので各個撃破された。
二、許子将の評価を恐れ、有能な軍人ではあったが若輩の太史慈を重要なポストに就かせず、偵察部隊長位の役目しかさせなかった。
三、戦争前は、自軍が圧倒的な兵力を誇っていた為、袁術勢力の一部とみなしていた孫策軍を見くびり過ぎた。

…などなどであり、それらは恐らく真実だったでしょう。この後、劉繇は豫章を本拠にしようとしましたが、笮融という、『南の呂布』と言われた食わせ者の反乱に翻弄され、その鎮圧後間も無く、この地で没しています。まだ42才でした。

さて、では三国志ファンには余り人気の無いこの人物のどこに、断腸亭は惹かれるのか?という問題です。それは、後漢末期の混乱状況の中、朝廷が機能していない中でも曲がりなりにも勅命を受けて南の辺地に赴任し、袁術退治を想定しつつ軍備を強化し、結果的に孫策に破れたけれども、最後までその義務を果たさんとした姿勢、だと思います。恐らく、この人物は、平和な世であれば、許子将の言葉の如く、『治世の能臣』となることも出来たでしょうが、彼は曹操ではなかったのです。

また、三国志の一つ、呉書の劉繇伝の最後にある陳寿の評価には、『劉繇は常に正しい物事をしようと努めてはいたが、遠く万里の地で自立し英雄になることは、その長ずる所ではなかった』、と有り、まさにその通りの人生だったのではないでしょうか。

人間は、生きる時代を選べませんが、劉繇の如く、世に出たからには不平を言わずに最善を目指して行動し、人生を全うする、これこそ私断腸亭も、厭世的でグダグダ言いつつも何とか実社会や自分の人生で実現したいと思っていることであり、大いに共感出来る部分なのです。

いやはや、前回の三人の何倍、書いたでしょうか?我が国の人物では、楠木正成とか、幕末の会津藩・新撰組が劉繇の生き方に近いと言えるかも知れません。時代の潮目に抗えなかった面が共通している様に感じます。

それでは、またお会いしましょう!




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# by danchootei | 2013-04-08 21:10 | ダンチョネ学問

三国志と断腸亭

三国志の定義は色々と有りますが、普通、我が国では、支那・後漢王朝末期から晋王朝(西晋)が支那大陸を統一する迄の歴史を記述した正史の『三国志』を指すか、或いは元末から明初め頃にに羅貫中という人物が描いたとされる『三国志演義』という歴史小説を指すか、いずれかのことが多いと思います。ここでは、この時代を、仮に『三国時代』と呼ぶことにします。

私断腸亭がこの三国時代に初めて触れたのは、父に買って貰った小中学生向きの『三国志演義』を読んでからでした。その三国志演義では、後に蜀漢王朝の初代皇帝になる劉備が概ね正義のヒーローとして描かれる一方、最大のライバル、曹操はその対極に有る、残忍な人物に描かれている場面が多いです。ただ、曹操も物語の中では、降伏した関羽が劉備の元に戻るのを止めなかったり、呂布の配下であった張遼を許して仕えさせるなど、寛大で人を見る目の有る、有能な点が描写されている場面も有ります。一方で、劉備は孫権と荊州領有のことでもめたり、蜀の劉璋の領地を奪ったりと、単なる仁徳者ではなく、食わせ者の一端も描写されており、単純な勧善懲悪の物語ではありません。

その後、自然な成り行きとして、正史『三国志』の方にも関心を持つ様になり、高校を出て働いていた頃、当時筑摩書房から我が国初の現代語の全訳が出版されていたこともあり、毎週地元の図書館に通いつつ、遂に全巻を読破しました。

さて、正史『三国志』とはどういうものかと言いますと、執筆したのは陳寿という人で、三国時代を終わらせた晋王朝に仕えていた史官(歴史の編纂をする役人)です。この人は、その前には蜀漢王朝の官吏をしており、王朝が魏に滅ぼされた後、晋に仕えることになった様です。魏というのは、三国の一つで、曹操の息子の丕が建てた国ですが、形の上では、曹操を武皇帝として創始者扱いしています。その後、魏の有名な政治家である司馬懿の孫である炎により、魏は帝位を簒奪され、この司馬炎が初代皇帝となる晋王朝が出来る訳です。

陳寿は、この司馬炎(武皇帝)に才能を見出され、晋王朝の下で、後漢末から三国最後の王朝・呉が滅ぶまでの歴史を記述して行くことになりました。また、『三国志』とは正式名称ではなく、正確には、『魏書』 『呉書』 『蜀書』、の三つがそれぞれ独立しています。但し、陳寿が仕えた晋王朝は、建前上、魏王朝から帝位を譲り受けていることになっていますので、魏のみが陳寿にとっても正統な王朝であり、他の二王朝は飽く迄、地方の(勝手に自立していた)独立政府の扱いになっています。

前置きが長くなりましたが、この歴史書を読んで行く内に、その前に読んでいた三国志演義の登場人物のイメージと比較しながら、どの人物が自分にとって最も理想の人物か、と考える様になりました。

その中でも、断トツで理想の人物と言えるのは、蜀漢の諸葛亮です。この人は、劉備のいわゆる『三顧の礼』で臣下になった後、主に行政面で手腕を発揮しました。また、信賞必罰の権化みたいな人物で、よく知られた話では、魏への北伐で一部隊の指揮を取っていた子飼いの部下の馬謖がその命令に違反して大敗した時、躊躇無く彼を処刑し、『泣いて馬謖を斬る』の故事成語を生みました。諸葛亮が亡くなった時、蜀漢序列第一の臣下であるにも係わらず、財産はわずかな桑畑だけだったそうです。ですから、この人は現代の政治家も見習うべき公平無私さ・清廉潔白さを持っていたと思います。また、劉備が陸遜に敗れて白帝城で亡くなる時、諸葛亮を枕元に呼び、我が子劉禅(二代目皇帝)が暗愚であれば、君が君主と成るが良い、と述べた言葉は有名で、断腸亭はこの場面ではいつも不覚ながら落涙してしまいます。それ程、劉備は諸葛亮を信頼し、国を奪われても良いと考えていたのでしょう。
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諸葛亮、字孔明。コーエーの三國志Xの顔グラより拝借しました。但し、私断腸亭のイメージとは程遠い…NHKの人形劇三国志の諸葛亮の、色白の儒者みたいな方がイメージ通りです。

次に来るのが、曹操に仕えていた荀彧です。この人は、まだ後漢王朝が存続していた時期に曹操の配下になりましたが、本心は曹操の強大さを利用して後漢王朝を再生させようとしていたという説が有ります。事実、曹操が袁紹を倒して支那大陸の覇者になる為に、同僚の郭嘉らと共に曹操の勢力拡大に絶大な貢献をしました。しかし、その後に曹操が帝位簒奪の意思を見せ始めると、それに反対して疎まれ、最期は曹操に自殺を命じられました(但し、直接、自殺を命じた証拠は見つかっていません)。これは、やはり現代の阿諛迎合が盛んな政治でも中々見られない、気骨の有る(後漢にとっての)真の、そして最後の忠臣だったと思います。
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荀彧、字文若。これもコーエーの三國志Xより。こちらはイメージに近いかも。

第三に来るのが、色々な主人に仕えた袁渙です。初めに袁術に仕えましたが、袁術が後漢王朝の権威・命令を無視し、独断で行動を起こすのを度々諌めました。その後、彼は呂布の捕虜となり、仕方無く仕えますが、その呂布が劉備と険悪になり、争った時にも、それに協力せず、呂布の脅しを論破しています。最後には、呂布を破った曹操に仕えますが、当時曹操と敵対していた劉備が死んだという情報がもたらされた時にも、劉備が袁渙の恩人であったことから、臣下の中では一人、お祝いを述べることをしませんでした。この人は、荀彧程の理想主義ではありませんでしたが、道理を重視し、命の危険を顧みない、立派な人物だったでしょう。
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袁渙、字曜卿。諸葛亮や荀彧と共に、名士(役人になる上流階級の身分・家系)です。曹操より前に亡くなっています。画像はコーエーの三國志11より。イメージは、曹操より早く亡くなったせいか、もう少し年寄りの方が合ってますね。

さて、第四に来るのが、と言いたい所ですが、この人物のことは次回の投稿時に譲りたいと思います。


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# by danchootei | 2013-03-16 21:03 | ダンチョネ学問

駄菓子屋の夜 その二 

大分久々に、戻って参りました。皆さんもお元気でしょうか。前回の投稿から、何と1年3ヶ月も経ってしまったんですね。サボり過ぎにも程がありますね。

その間、あの河合商会が倒産…かなりショックを受けました。プラモの金型はどうなるんでしょうか。その後の続報はまだ得ていませんが、それだけが心配ですね。河合商会も鉄道模型を扱ってましたが、断腸亭が好きな113系の編成もおととし、消滅してしまっています(JR東日本管内)。あのうるさいコンプレッサーの音ももう聞けないんですね~、動画投稿モノにはよくあるんですが、やはり実物の音は生で聞かないと体感出来ないと思います。

私断腸亭も、イマイチ気分が上向かず、日々無為に過ごしています。食欲だけはそんなに疲れる仕事ではないのに人一倍ありますね~、ハラに虫でも飼ってるんじゃないの?と言われることが時々あります。ヤセの大食いって奴でしょうか。

さてさて、今回はタイトルにもあります通り、河合商会の駄菓子屋の続編です。言ってみれば、tribute to the memory of 河合商会、といった感じでしょうか。前回、載せなかった写真を載せたいと思います。前回のよりやや離れた位置から撮影してあるせいか、ややボケ気味ですが…この写真も、やはりインパクト増強?の為に、特に照明関係をパソコンにていじくってあります。そのせいか、やや絵画チックになってますね。

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それでは、皆さん、また次回、いつ投稿するか分かりませんが、その時までごきげんよう!

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# by danchootei | 2013-03-10 15:40 | ダンチョネ回顧